プロフィール

UNISONクリエイト代表:綿貫 英紀

> 主な資格
▽ヤマハコンサートチューナー(ヤマハ調律師グレード2級)ヤマハ最年少取得者
▽スタインウエイコンサートチューナー(松尾楽器商会技術研修修了)
▽ベーゼンドルファー・ジャパン公認技術者(ベーゼンドルファージャパン技術研修修了)
▽(社)日本ピアノ調律師協会 会員
▽スタインウエイ会会員
▽ヤマハピアノテクニカルアカデミー卒業

 

> 所属団体
 上越市民吹奏楽団ホルン奏者・総務顧問
 上越交響楽団ホルン奏者
 上越マーチングフェスティバル副実行委員長
 上越商工会議所青年部観光開発委員会委員
 NEO浄興寺プロジェクトリーダー
ユニゾン・クリエイト

経歴

世界三大ピアノのコンサート調律技術の認定を有する関東エリア有数の技術者。
長らく専門家を中心とした調律に従事。おのずと文化政策に精通し、裏方としての立場から文化事業のノウハウを得る。
幼少より音楽を愛好し、ホルンはもとよりさまざまな楽器を演奏。
22年前に上越市民吹奏楽団を設立。演奏者として上越交響楽団にも所属。
ポピュラーバンドも平行して結成、さまざまなコンテストに入賞。
その活動は現在も継続して行っている。
地元でプロアマ問わず最も多くのネットワークを有する。
昨年1月より、調律師とイベント企画・プロデュース事業を平行して事業展開を図る。

まちづくり活動については、上越青年会議所に10年間所属。専務理事までつとめる。
その間、大小を問わず、さまざまな企画・運営を経験しノウハウをつむ。
2002年には、新たな上越青年会議所のビジョンを策定する特別委員会に所属し、発刊した「ビジョン」なる冊子にて、自前の文化政策論をとく。
また、上越商工会議所青年部観光開発委員会に設立当初より参加し、10年にわたり役員をつとめ、観光事業の重要性とノウハウを得る。
TMO策定部会にも所属し、なおえつ茶屋、日活復興事業など多くの事業にかかわる。
その他、上越市のさまざまな委嘱委員を歴任。第5次総合計画策定委員。

現在、音楽全般のトータルプロデュースを中心に業務を展開。
また、様々なイベントにおいて、音楽のもつ世代を超えた一体感を共有する特性を生かし、そのイベントの付加価値を高める企画を提案している。
地元大手結婚式場にて、音楽人前挙式を企画プロモートし、地元著名アーティストと連携を図り年間100組にわたる挙式を請け負っている。
また、様々な要望によりライブ企画や演奏者派遣を行い、地元アーティストだけでなく、東京・金沢・神戸・大阪・新潟などのプロダクションと連携を図り、安価かつ良質なアーティストの提供を可能としている。
当然ながら、地元のプロやアマチュア演奏家とのネットワークをほとんど網羅しており、音楽に関わる企画については、スムーズに連携を図ることが可能である。
その他に、上越マーチングフェスティバル(JMF)の組織を構築し、現在副委員長をつとめ、JMFのプロデューサー的役割を担う。

また、国の重要文化財である浄興寺において、一昨年の落慶法要記念事業を皮切りに、NEO浄興寺プロジェクトなるプロジェクトチームを発足。文化財としての価値とその本堂を活用した文化事業の融合をはかり、年間十数回のイベントを実施。今上越でもっとも注目されている活動を展開。本年度もさらに充実した事業展開が予測され、さらに注目度が高まることは必至である。
詳細ホームページ参照(http://www.johkohji.com/)(http://www.neo-njp.com/

私の音楽履歴

私が音楽に興味を持ったのが、小学校3年生のとき。特に家庭環境に音楽家の環境があったわけではないが、歌が得意で、文化祭や音楽祭で独唱をつとめた。もともと音楽は性に合ったようでその後音楽が人生の中心となる。
父の好きな野球を続けていたが、小学校5・6年生のときに鼓笛隊でトランペットを吹く。
中学の部活選定において、野球部に入部したが、1週間の仮入部で退部。合唱部と吹奏楽部のどちらかをやりたくて見学。合唱部は女性しかいず吹奏楽部に。1週間入部が遅れたため、本来のトランペットはすでに満席。残っていたホルンを与えられる。
勉強はもともと嫌いで、その分部活に没頭。
高校選択も、当時吹奏楽部がある高校が近隣に2校しかなく、近郊の高校に入学。
相変わらず部活三昧の3年間。当時はあまり力のある吹奏楽部ではなかったが、燃えた3年間は思い出に残る。
3年生のときには部長を務める。そのころから今後の進路は音楽関係をと考えはじめる。
まずは、受験に必要なピアノを習い始める・・・がぜんぜん弾けず・・。ホルンで音楽大学を検討・・。しかし、実力もないし、その後の進路がなおさら問題・・と先生からたしなまれる。
そのとき、高校の臨教の先生から、ヤマハで調律師の学校をつくって募集している・・、と伝えられる。
あまり詳しいことはわからなかったが、ほぼ即答で調律学校に進学することを決意。

いまとなっては、とても運のよい機会に恵まれたと思う。
ヤマハテクニカルアカデミーの二期生の募集であった。当時は鳴り物入りの学校で、世界的にも業界的に注目を集めていた学校で、企業直轄でそれもヤマハの直営で優秀な技術者を育てるという目的だった。
よって、初期の卒業生は卒業後もある程度のセクションで仕事についている方が多い。

その後は、地元のヤマハ特約店で部署の統括と、調律業務を担当する。
おのずと、早い段階から調律の担当はホールや演奏家などが多く、自己の技術研鑽のステップアップが必然となってくる。会社に無理をお願いして、卒業まもなくからステップアップ研修を受講し、グランドピアノコース、コンサートコースを受講し、最年少でコンサートチューナーの認定を受けた。
タイミング的にもとてもラッキーなときだったなあと実感。
前任者がいれば、私のところへはその機会はなかなか与えられなかったと思うし、調律業界全体が活気ずいていた時期だったと思う。
その時期には、ホールの保守メンテナンスもこなしており、ヤマハだけでなくスタインウエイも担当していた。
コンサートチューナーの認定を受けたことで、自分の中でコンサートチューナーとして中央で仕事をしたいという夢が大きく膨らみだし、ある演奏家のリサイタルでついてこられた松尾楽器商会のAさんに思いのたけを話し、自分の保守をしているスタインウエイを見ていただいた。反応は上々で、資質を磨けばさらに上をめざせるかも・・、というおせいじを鵜呑みにし、早々、東京にでて勝負することを決意。
ちょうど、結婚して1年目で一人目の子供ができたばかりだったが、もともと音楽で知り合い、調律師に強い興味を抱いていた妻が理解を示してくれた。問題は、所属の楽器店である。部下を育てるよりもまずは自分の技術向上を優先していたため、自分の抜けた穴がふさげない。それと、私の直情的性格を知ってか、もし東京で思いと違う場合はどうするのか、納得するまで会社に席を置いておく・・、という信じられないような提案をいただいた。
そのときは、まさか自分が戻るとは思っていなかったので、リスクもないことからその話を承諾し、東京へ向かった。
心情的には、怖いもの知らずで今の自分ならどこでも通用する・・、という若気の至りどころか、無謀な行為だったと赤面する。
案の定、入社試験をかねた松尾楽器商会での1週間は・・、いや1日は地獄の日々だった。自分の実力と世界の広さを一瞬で痛感し、人格的にも技術的にも自分の力を痛切に感じ、調律師を辞めようとまで考えた。
しかし、気を取り直し・・(周りの支えがあったなあ・・)1ヶ月間を初心に帰ってステインウエイピアノを学ぶことに切り替えた。
松尾の方から、力はある・・、地元で自力をつける環境もあるし、これを機会にもっと研鑽もできるから、もう一度そちらでチャレンジしてからでもよいのではアドバイスをいただいた。そのまま東京に残ることも可能ではあったが、地元に戻る決意をした。なんと、所属楽器店のオーナーはすばらしい読みだったかと感動。
おかげで、戻る場所があり、そこで学んだ自己の暴慢さを恥じ、本当の技術者としての資質と謙虚さを得るべく仕事に従事した。そのまま、その世界だけで突っ走っていたたらどうなのだろう・・と考えると恐ろしい。
困難を乗り越え、立ち向かう力もなく、暴慢さの中だけでエゴイストに生きていたのではないかと思うと恐ろしい。
東京でのあの出来事は、まさに己のおろかさを気づかせてくれた人生の大きな転機だった。

・・・調律学校を卒業し、地元で市民吹奏楽団を作る話が浮上。現妻とは、高校時代からの他校同士の吹奏楽の交流で知り合った。そのときから、戻ってきたら一緒に吹奏楽団をつくろうという話はしていた。
仕事を始めて少したち、再会の折に一気に吹奏楽団創設を具体化する方向になり、上越市民吹奏楽団を結成。
現在も夫婦で在籍。すでに結成して20数年を経過。団長・副団長を歴任し、現在はプレイヤー兼顧問を務める。
上越交響楽団にも早くから夫婦ともに在籍し、現在もステージに上がる。
  上越マーチングフェスティバルも第2回からプロデュース的立場で、副実行委員長をつとめる。理解を頂くため、市長を高崎マーチングフェスティバルに連れて行き、音楽のもつ力を理解いただき、3年にわたり側面支援をいただいた。
そんなことから、多くの地元の音楽仲間が自分を取り巻いている。

東京から帰ってからは、調律に対してさほど欲が薄くなった時期だと思う。
亡父が作った建設会社を父が怪我をしたのをきっかけに、跡継ぎを意識したわけではないが入社を決意。
ちょうど、ヤマハがリストラに取り組んでいる時期で、多くの師が退社する姿を見たことも、決別するきっかけとなったのは間違えない。
所属楽器店とは、スタインウエイの保守などを含めて一部嘱託としての契約を交わし、調律師としては細々と存続。
入社した父の会社は、期待とは裏腹に非常に厳しい経営を強いられていたが、自分の存在価値を見出すべく、経営再建の努力に日々取り組んだ。おかげで、会社運営の良いも悪いもすべてを学ぶことができたが・・。
平行して、さまざまな街づくり団体にも所属し、企画・運営能力、そして多くの音楽以外の人脈を得た。

一番つらかったのは人を使うことである。これがもっともストレスがたまる。
もともと負の要素が多い会社だけに、なかなか良い方向に行かないことと、人的ストレスが重なり、いつしか自分の道を再度見直すこととなる。
今自分ができることはなにか・・。ピアノ調律は当然だが、この10数年間さまざまなイベントや事業の企画・運営を経験し、また、いくつか仕事としての企画提案が好評だったことから、イベント企画・プロデュースも面白いと考えるようになった。

2004年12月父と相談し、ついに会社を決別、独立を決意。父には、切の良いところで会社をクローズするよう促す。
その矢先、父が肺がんで後半年の命と宣告。運命とは恐ろしいと感じつつも、すでに自分の道を歩みだしており、もどることは考えず。父は入院し、会社は経営者不在のまま、4ヶ月が経過。当方は会社クローズの影が忍び寄ってくることを感じつつ、心の準備はしていた。4月、最後の一時自宅退院を許され、父に会社の今後を問いかけた。
たぶん死を感じつつあったのであろう「やめるか・・・」ついに決断した父の意向に沿い、私のすべきことは今まで学んだリスクヘッジの学びに従い、できるだけ社会的にも経済的にもリスクが少ない選択により、会社の整理を事務的に遂行。
負が大きかったため、若干でも社会的リスクを与えてしまったのは非常に心苦しいが、父に代わって深くお詫びしたい。

独立してからは、その10年間を人生の糧として、また学びを得た時期として現在の生き様に反映している。
調律を主体と考えていたので、再度調律師のしての自己のレベルと感性を知るべく、スタインウエイ会入会、ベーゼンドルファージャパンの研修受講、そしてステップ?の申し込みなど、あらためて、自分の目標設定をし、それをベースに自分を必要とする企画やプロデュースの依頼が多く来るようになった。
今まで培った企画・プロデュースの経験と、音楽関係の人脈がフルに仕事に反映できるようになり、自分としては驚きと喜びである。人生ってあきらめず、自分を失わず生きることがとても大切だと実感。

これからの人生がどうなっていくかはわからないが、自分らしさを追及し、謙虚にそして自分に相応な生き方をしていきたい。
だれが評価するではなく、まずは自分の状態を自分で感じられているか、自分の力がどこにあるかを基本として、次に相手を感じられているか、相手の要求はなんなのか、果たして通じ合ったのか、己を知った上で相手と向かい会うことが大切だと思う。いま、与えられた人生の時間に、多くの方の励ましやささえがあった。特に浄興寺のご住職夫婦には、お礼の言葉もない。自分を気づかせてくれたし、自分のもつ力を理解してくれた。NEO浄興寺プロジェクトは、新たな人生を踏み出した私のライフワークでもある。そして自分を出せる最も楽しい時間でもある。

今、自分はストレスフリーで、感性も今まででもっとも研ぎ澄まされていることを実感している。
ピアノ調律師として、地域の音楽関係の核として、自分らしく生きていきたい。
ぜひ、音楽を通じて多くの方と出会えることを楽しみにしています。



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